今回は離婚を決意することになった直接的な要因である311東日本大震災当時のお話です。その当時の様子と心境、離婚に突き進む思考回路を離婚から8年半経った2019年の今、回想します。
◆離婚のきっかけは311.東日本大震災だった 画像
私は2017年3月に結婚して、2011年4月に子連れ離婚をしています。ちょうど311東日本大震災直後に離婚したことになります。
画像:時事ドットコム
震災時はハワイ旅行だった
元旦那さん。
当時私はすでにそこまでの6.7年もの長い間、自分の結婚生活と乳児の育児に精神的に消耗しており、東日本大震災が起きた時にも元旦那さんは会社の月1回のハワイ旅行で不在でした。私と娘は東京での日常を過ごしていました。

まだ5歳でした。
◆311.東日本大震災当時の東京での生活状況 保育園の話 画像
当時の私は完全なワンオペから1日数時間の定時に終わる自宅近隣のパートに出ており、その時間は保育園の方々の力を借りて子育てをしていました。
その日も大きな地震の後、娘のいる保育園に何時にどう迎えに行けばよいのかということの判断が難しい状況でした。
画像:時事ドットコム
15:00前に起こった地震でしたが、それだけで終わりなのか、その後もまた大きな地震がやってくるのかが見えない状況でした。
私は幸いまだ近隣で働いてはいましたが、それでも安全を考えた時に娘をいったいいつ迎えに行くのがベストなのかを考えていました。
画像:時事ドットコム
いろいろ考えた結果、娘を迎えに行く前にたまたま実家にいて連絡がついた母親に伝言をします。
「今から保育園へ迎えに行って、無事帰ってきたらもう一度連絡を入れるので、もし私からの帰宅の連絡が無かったら、サクラ(娘)が保育園や外にまだ居るかもしれないのと思って気にかけて欲しい。」
記憶が確かならば、16:00までには
娘を無事迎えに行くことができたと思います。
その時間の保育園はまだ迎えに来られる状況の保護者は少数だったものの、もちろん、先生方も未曽有の大震災に大変混乱した状況でした。数日して伺った話では、震災当日、最後のお迎えとなった園児は0:00を回って翌深1:00頃になったそうで、
その時間まで子供たちの安全を確保して不安に寄り添ってくれたのは、ご家庭を持っていない単身の若い保育士さんだったようです。
若い先生方だって
とても不安に違いなかったのに、
子供たちをずっと
抱きしめていてくれた。
最後のお迎えとなった親御さんも、ご両親共にクラス担任を持つ小学校の先生でした。そういったお話を聞くと、我が子の心配をしながらも社会的責任を全うしなければならない立場で働いていらっしゃる方々には本当に頭が上がりません。
その日は、私の自宅マンションの近所の公園にも、地震後の交通混乱の関係で家が遠くて帰れないサラリーマンの方々が夜に大勢座り込んでいたという話も後から近所の方に聞きました。
もし女性がその中に居たのであれば、どんなに不安な夜になっただろうと思うと、
そんな時こそ先に気が付いて自宅にあがって貰うように率先して配慮するべきだったと、自分の事で精一杯だった当時の自分を今でもとても情けなく思います。
画像:時事ドットコム
◆311.東日本大震災当時の元旦那さんからの電話と被災地の凄惨な映像がもたらしたもの 画像
自宅へ帰ってきて、次々に明るみになる日本の惨状、テレビ映像にホーシンしている頃、ハワイにいる元旦那さんから国際電話がかかってきました。
「こちら(ハワイ)にも日本の地震の影響で津波が来るかもしれないと話題になっていて、数日後に飛行機が飛ぶか心配だ。」という話がありました。
フライトの心配?
画像:時事ドットコム
私としては、この結婚生活で精神的余裕がもうそもそも無かったこともありますが、進行中の日本の凄惨な光景が明るみになる状況や、地震後に娘を迎えに行く緊迫した場面の後だったためか、その電話での気持ちの温度差に怒りすら覚えていました。
(今考えればそれも仕方のないことだったかもしれません。)
画像:日本財団
そして、そこから1週間10日と、どんどん過酷になっていく被災地の報道、被災地ですべてを失ってしまった人々の報道、被災者に祈りを捧げるためのチャリティー番組の曲が流れる中、私が感じたのは「家族ってなんだろう」「人生ってなんだろう」「生きるってなんだろう」という事でした。
そこには持っているほとんどすべてを失った人々が、その絶望からそれでも必死に、残された家族、地域の方々と共に立ち上がろうとし、心を寄せ合う姿がありました。
私には子はいるけれど、
私の今の家庭はこれからも
きっと「家族」にはなれない。
その時の私の中では、はっきりとそれが見えた感覚がしていました。そこまでの結婚生活にずっと疑問を持ち続けていたにもかかわらず、なんとなくなんとなく、
●離婚した後の生活を想像したときに私には「困難」しかイメージができないから
そういった理由だけで私は「私の人生」や「家族」「生きるということ」をこのまま一生放棄してぶら下がり続けようと知らず知らずのうちにと思っていたのだと思います。
経済的な意味だけでなく、幸せの意味でも
自立しきれていなかった当時の私は、
元旦那さんに永遠ぶら下がっている状態だったのだと今は思います。
しかし、実際にその時の私が考えていたことは真逆で、こんな思考回路でした。
●どうして私たちに対する想像力が働かないのか?
●それは私たちの事が、大して大事ではないからではないか?
今思うと、ホントに当時の私自身がもろもろまだ思考回路が成熟していなかったのだなあと思うのですが(笑)
愛されていない
と思い込み
勝手にどんどん傷つく。
という負のスパイラルでした。最後にはあまりにもそれがツラすぎて、感情を抱かなくなる状況にまでなっていました。私は私で未成熟なのは確かでしたが、その目に映る悲しみが底抜けに深いという事実もまた真実でした。
画像:時事ドットコム
一方、被災地ではほとんどすべてのものを失った人々が、それでも立ち上がるしかない。進んでいくしかない。だから立ち上がるんだと歯を食いしばっている姿がありました。
「たいせつな家族とこれからも一緒に生きるため」「大切な家族が遺してくれたものと一緒にこれからも生きるため」でした。
その時の私の家庭には
娘と私以外「家族」はいない気がしていました。
自分ではない誰かの評価の為に「家族のフリ」をし続けることで消耗し、ほかの全ても全く意味がないもののようにしてしまっていたのです。
一緒にするのはあまりにも次元が違いすぎるとは思いますが、私も一度持っているものを手放して、もう一度立ち上がって進んでいこうという気持ちになりました。被災地の方々も立ち上がろうとしている。私も自分の「生きる」を取り戻すためにもう一度闘うんだと決意した瞬間でした。
今思うと、この結論に至る辺りにも前述の通り、当時の自分には色々な未成熟感を感じますし、自分さえ違えば離婚を回避することもできたのではないかと現在では思っています。
しかし、結局当時の私の問題は「幸福」についても「経済」についても自立していなかったことによる、「モノを見る目線」の問題だったと思うので、その二つの機能を自分に搭載するにはやはり、離婚をして自分の足で立たなければならない状況と、そこまでのキツイ滝行を踏まなければ現実問題として無理だったのだろうとも思います。
その滝行経験と
ふたつの富の自立が
現在の私を支えています。
東日本大震災の被災地のチャリティーソングとして流れていた、エレファントカシマシの「悲しみの果て」を聴くと今も当時の記憶がよみがえります。
「花を飾ってくれよ、いつもの部屋に」
私たち母子にも、もう「いつもの部屋」はどこにも残されていなかった意味で、その部屋を瞼に思い浮かべる気持ちは被災者の方と共に今もあるのかなと思っています。一緒に私たち母子も心の復興の道を今日まで歩んできました。
それではまた次回、お会いしましょう♪
中野カンナ
当面、手探りで運営する個人サイトであるため、素人感たっぷりだとは思いますが、
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記事数が整い次第、にわかにつぶやこうかと思っています(笑)

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なお、同姓同名が多発している「中野カンナ」ですが、現状で運営しているのはこのtwitterアカウントのみで後はtwitterもFacebook、その他に関してもこのブログ以外は他人様です(笑)
本人に心のゆとりが生まれましたら、またFacebookなども開設していくかもしれませんし、しないかもしれません(笑)その際には都度お知らせいたします。よろしくお願いいたします。
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