自分の幸福へ向かうためのアプローチと自分の目で選ぶことの重要性

◆クヨクヨ

前回(第1回)は、クヨクヨ・メソメソに対する価値観を一旦整理して見直してみよう!という事がテーマでしたが、今回(第2回)は引き続きクヨクヨすることについて深掘っていきたいと思います。

 

【この記事を読むと分かること】

①自分の考えている「幸福」が本当に自分のモノかどうかを考える必要性があるということ。

「自分の幸福のありか」を探し出すアプローチについて。

「自分の目で選ぶ」ことの価値。それができない時に起こること。

⑤クヨクヨ・メソメソが現状打破のヒントであることの理由と私の事例

『自分の幸福のカタチ』についてリデザイン(再設計)する機会を得られる。

 

クヨクヨ・メソメソの価値について見直し、これからはそれらが幸福を祈る空からの、自分に対する愛でありギフトだという認識で受け入れることが出来るようになる。

 

…はずです(笑)宜しければ、幸福に向かうアプローチのひとつのアイデアとしてご活用いただければ幸いです。

 

さあ、今日もさっそく行ってみましょう!

■ステップ2:クヨクヨを考える前に、最初に「自分の幸福のカタチ」「幸福へ向かう矢印」をおおよそ見定めておく。自分の目で選ぶ。

私も人生の迷子になってから、ある時、はたと気づいたのですが(笑)←おそい

 

ココ(自分の幸福とは?成功とは?)を深く考えて、ある程度定義しておかないと人生は目的地のないドライブになります。まあ、ホントはそれはそれで楽しかったりもするんでしょうけれど(笑)。

 

けれども、その時に「自分の目で選んだ」という最終決断の責任を自分で負う気持ちがなければ、後述しますがチョット厄介なことになります。それに、目的の方向性が定まっていないことで「自分の目で選ぶ」こと自体が根本的に不可能となります。

 

 

自分の幸福への矢印が定まっていない場合、人に勧められた、あるいは誰かに刷り込まれた価値観である「完全に勘違いした幸福」を手に入れようと、20年も30年もかけて苦労していくことになり得ます。

 

それで振り返った時に「ぜんぜん幸福ではありませんでした。」となってしまう可能性が出てきます。これって、意外と日常でもよく見かける現象でもあります。

 

じゃあ仮にそうなってしまった時、そこから軌道修正していくのは年齢にもよりますが、後になればなるほど結構しんどいのではないかと思うのです。

 

その中にはタイムリミットのあるものもあるでしょう。ですから、「自分の幸福」について、いつも適宜修正をいれつつ、おおよその方向性を最初から定めておく必要がある。

 

東西南北があって、自分の幸福の地が仮に「南の島」なのだと分かっているなら、とにかく詳細はいいからまずは南に行く。あとの北東西を目指さないほうがいいよねって事です。

 

 

■本当に自分が望む幸福はどこにあるのか?トラップ実例と、自分が命を注ぐべき方向や優先順位が分かる方法

けれども、案外ここには諸々のトラップがあって、「自分の幸福の方向性」を見出すこと自体がそもそもメチャ難しかったりもします。

 

例えば、
デザインが好きだから勉強してデザイナーになりたい!
➡それは仮に手元に1億円が降ってきても同じように思っていることなのか?

 

ここで「NO」が出る時、幸福に必要なものは現金(経済面での解決)であって、デザイナーになることやその為のデザイン技術・資格の取得ではないことが分かってきます。

 

次にそれでは、手にした現金で何を実現したいのか?
人生で果たされなかったら死ぬ時にきっと後悔すること。
本当はこちらが「自分の幸福の矢印」に近いのではないかという事です。

 

例えば、現金を手にして実現したいことが
「夫婦仲良く、子供も健やかに育つ、自分のあたたかい家庭が欲しい」だったと仮定して、

 

そうなると、よくよく考えたら自分だけが稼ぐ必要はないのかもしれないし、収入が低くても、やり方を変えればお金を使わずに実現するのかもしれない。仕事よりも配偶者や子供のことが自分の幸福実現にとって優先すべき事項であることも明確になります。

 

ここまで考えてみると、当初の「デザイナー」という経路が、先ほどで言う「南にあるのに北へ向かっている状況」になりかねないいう事が分かるのではないかと思います。一周回って南に出るかもしれないけど・・・

 

超絶がんばって舟をこいできたのに、一瞬でも望んでいたものとは正反対の極寒を経験しなきゃならないなんて、どう考えてもしんどい(笑)。泣く。

 

やりましたw

 

こんな風に、本来の人生の目的の方向性が分かってくると、いろいろなアプローチや可能性、選択肢が生まれ、逆に分かっていないと例えば「デザイナーになる」に無駄に縛られ、自分の幸福の矢印に向かう事が超絶キツくなってくる、という不思議な現象が起こります。

 

その時のクヨクヨや、そもそもその発端となるアクシデントは一見、当事者にとっては「不幸」の形をして落ちてきているように見えます。だけど、もう少しよく考えてみると「アナタの向かうべき方向はそっちではありません。」という事を暗に示してくれているとも言えます。

 

幸福へ向かうヒント

 

 

うすうすそんな気がしていましたが、私がこれについて、はっきりと確信したのは「会社員として生きることを諦めた」後でした。←結構最近w

 

●会社員でいなければならない
●何者かにならなければならない
●専門家にならなければ生き残れない

 

こんな呪縛が私の中にはありました。会社員を辞めることはシングルマザーの私と娘にとって、それこそ死を意味するくらいに思えていました。けれども、しがみついてもしがみついても毎回違う形で蹴落とされる過酷な時間を過ごすことになり、

 

今から考えると、何度も何度も「そっちじゃないよ」「そっちじゃないよ」と空は伝えてくれていたのに、頑なにそれを受け取らない私がいた、という状況だったと分かります。

 

空からのメッセージを受け取らず、変わろうとしない人には、空は形を変え何度も何度も同じテーマのアクシデントを投下してきます。

 

多分、これはこの世界の真理のひとつなのではないかと私は思っています。

 

そして、受領を拒絶された回数を重ねるごとに天は「今度こそちゃんとキャッチしてくれるように」との親切心で(←多分)

投下するアクシデントの重度や深刻度、ストレス度をより上げていきます。

 

ますます過酷になっていく。

 

でも、これは考えれば考えるほど、「約束された幸福へ向かって欲しい」という神聖な存在からの「愛」でしかないことが分かってきます。

 

この話は長くなるので、また別の機会にすると致します(笑)

 

ヒョエー。

 

■最終決断を自分の目で選ばなければ、底なしの不幸の連鎖が起こっていく。ステージテーマと課題に気づく。

つぎに先ほど、一旦保留した

「自分の目で選んだ」という最終決断の責任を自分で負う気持ちがなければ、後述しますがチョット厄介なことになります。

 

についてですが、私はナント「結婚相手」を選ぶ際にコレをやってしまいました(笑)。おいおい、エラソーなこと言って何やってんだよwwと自分でツッコミを入れたくなるわけですが…。

 

 

繰り返しになりますが、この問い、本当に重要になってきます。

 

それは本当に本当に
わたしの幸せなのですか?

 

この問題、自分自身の事なのにもかかわらず、ちゃんと答えを出すのが本当に難しい問題です。

 

「親が喜ぶ」「周りが喜ぶ」「体裁が保てる」「世間体」「便利だから」「楽だから」「なんとなく」「意味不明の危機感から」…そんな表層の価値観に誘導されると、「自分の幸せのカタチ」はどんどん見えなくなってゆくのです。

 

現に、周りから見ると「恵まれている結婚をした」と思われていた私でしたが、
実際は私にとって、生涯で最も生命力を失った時間でした。

 

かといって、「自分の幸せのカタチ」というものは見定めるにも時間がかかり、そこを見つけて尚且つ目指していくことが出来るスキルを得るには、非常に手間暇かかるし、結構めんどくさいわけで、

 

完璧にしてから結婚しようなんて考えたら、大半の乙女はもう乙女ではなくなっている可能性が高いのではないかとも思われます。

 

だから効率よく安心できて、誰にも反対されない出来合いの価値観をついつい採用してしまう。(←私)

 

 

もっというと日本人って人柄がもともと島国温厚体質ですから、自分が我慢してでも争いや対立を極端に避ける性質が強い感じがします。(そういう教育もみな受けてきているので)

 

自分の幸福を優先する選択しようものなら、大抵は「ワガママ」だとか「自分勝手」という評価をされたりもします。

 

これが今問題になっている
同調圧力って言うやつですかね。

 

かといって、そうした無責任な評価をした人たちが、発言の責任を取って後から私を不幸から救い出してくれることなんて絶対にない。そういう、不条理な仕組みをまずは理解しておかなければなりません。

 

そして、自分の目で選ばなかった選択の結果が、まるで自分の幸福にはつながらなかった時、人はしばしばそれを誰かのせいにします。私の場合は幸い(?)結婚でコケていたので、離婚は自分の意思だけで親の意見などはガン無視することが出来ました(笑)

 

けれども、私の知り合いは、素行の悪い夫との離婚を実の両親に勧められ、従順な子供だったこともあり、自分の心と向き合う事を省略して両親の意見を丸のみして離婚してしまいました。そして、現在でもそのことを後悔し、両親を恨みつくしています。

 

その子のことを悪く言うつもりはないのですけれど、誰かのせいにする不満を抱えた時、人は本当に底なしの不幸のサイクルに入っていくような気がしています。

 

彼女の場合は恨んでいる場合ではなく、改めて自分自身と向き合い、声を聴き、幸福力の意味で自立することがステージテーマであると外野の私には何となく分かるのですけれども、(そのためにある現在の苦しみなのだと)

 

では自分に託されている現在のステージの課題というものは一体何なのか?という点になると、気づくのはとても難しいことでもあります。ですから、先ほど言っていた、空の声や内側の声とつながる管が大事になってくる。

 

こと、「自分の幸福のカタチ」「自分にとっての成功」に関しては再現不能の無二の人生に乗っかっているものなので、自分以上の正解を導き出せる人はこの世にいないと肝に銘じる必要があると思います。

 

自分の目で選んだものならば、万が一失敗しても、一定の満足があり、「誰かのせいにする」という最悪の不幸スパイラルには陥らなくて済むのです。

 

 

■「自分の目で選ぶ」には例外もたまにある、が、最終決断の結果責任を自分で負う気持ちは同じ。

さて、私の経験において「自分の目で選ぶ」ことがちょっといい方向で機能しない「例外的事項」もあったりしたので、ここでそれも一緒にご紹介したいと思います。

 

例えば、離婚問題であるとか、育児の問題、不登校の問題、介護の問題、お金をとことん稼ぐ!のような、まだ見ぬ『未知の領域』の話については、あんまり自分の考えに固執することが良い結果を招かないケースがあります。

 

 

例えば私の場合、離婚の決断に至る段階で「離婚した後にも子供を幸せに育てる」ということを何よりも実現したいと思っていました。

 

けれどもそもそも自分の目を信じて選んだはずの結婚相手と破綻している時点で、「自分の目」に対して信用を失うという事象が出てきました。精神状態も過去にないレベルで混乱をしていました。

 

とてもいい答えを出せる基盤がない。

 

自分にとって初めての経験である「離婚」そして「シングルマザーとして生きる生活」。この場面で自分の中の考えだけで進んでいくことはとてもアブナイと動物の勘で感じることが出来ました。

 

 

そこからは、信頼できる体験者の声をたくさん集め、それを参考に導き出した選りすぐりの正攻法という答えを選び、それに乗るという事をしています。

 

 

結果、例えば「離婚相手と子供の面会」などのことについて、その時の自分の感情論ではなくて「子供の幸せについて俯瞰した意見」を採用できたことで、とても後悔のないよい決断になったという想いでいます。こういう場面では経験者の意見に丸乗りする勇気も大事。

 

■人の意見を採用するときにも最終決断は自分が下す

「自分の目で」「自分の目で」と口を酸っぱくして言い続けてきたのに、ここまで読んでくださった読者さんからするとオイ!というお気持ちかもしれませんが(笑)、

 

私は本来、人の意見を採用すること自体が悪いとは全く思っていません。むしろ繰り返される歴史や経験者の話の中には、時代が変わっても変わることのないない砂金のような「真理」がいつも混ざっていると思っています。

 

けれども、気を付けなければならない事として人の意見には同時に「その時代背景だからこそ通用した正攻法」「特定の条件だったからこそ意味のあった闘い方」もランダムに混ざってきます(笑)。

 

特に親の意見などにそういうトラップが頻繁に混ざっているように感じます。話し手側の親は全てが真理だとでも言うような言い回しもしてきたりする。そして、その親の元で育てられた子供は、親の感性を受け入れやすい形で育っている。

 

ここに脊髄反射して
全部乗っかると大変な目に遭う。

(そうして大変な目に遭ったのが団塊ジュニア)

 

 

だから、それをやっぱり最終的に「自分の目で」吟味して判断しなければならないと思うんですね。最終決断は自分で下す、結果についても自分が全て背負うという確固たる意思です。

 

 

例えば、団塊世代の私の両親は高度経済成長を支えてきた世代であり、その時代において有名大学を卒業しているという「札」は、年功序列・終身雇用が約束された日本を代表する大企業で活躍し、出世できる魔法の切符として非常に有効な正攻法でした。

 

 

ですから私の世代の親はみんな、子供が苦労をしないよう愛情のつもりで、子供たちが有名大学へ進学することを望み、「とにかく札だけはとれ」とばかりに意味不明な受験勉強を強要すらしてきました。

 

で。

すいへーりーべー
かろかっくいーいーけれで後の時代に幸せになった人が
一体何人いたのでしょうか。
(私は学習自体は面白いので、豊かさにもなるとは思っています。)

 

実際の現場である、団塊ジュニアが見てきた社会では、大卒の札を得るために抱えた奨学金債務とその返済に追われて困窮する若者が大量に出ただけで、逆に親世代が望むような社会的成果を上げている人間がみんな大卒かというと、殆どそこに因果関係はなかった気がします。

 

 

また、昭和までに大人になった世代では、年齢が上の人の方が実務経験があり優秀であるという信仰も非常に根深いために、未だに古参の上場企業がテクノロジーの進化に対応できないという悲壮感しかない状況が現実としてあります。

 

さらに絶望的なのは、そういう状況が露呈しているのに今もなお、ITネイティブ世代に対し、若年者だからという理由だけで決裁権を与えていないという意固地な状況があることです。本当にオワコン感を色濃くしているだけの「邪悪な信仰」であります。

 

 

脊髄反射をして親の言う事をちゃんと聞くいい子だった団塊ジュニアは、私もほぼ同年代なので実感として感じるのですが、前述の「不幸のスパイラル」に見事にハマっている人々が多い気がしています。(傷が深すぎて、抜け出せていない人も多くいる)

 

それは今までの論理で言うと、「自分の目で選ぶ」ことが出来なかった結果でもあるわけですが、団塊ジュニア世代の場合は少しだけ同情の余地があって(同世代だから思うことかもしれませんが)

 

とてつもない時代の変化の激流に差し掛かった世代であることに加え、絶対的な存在である親から、意思能力や判断能力が備わる前より「もう使いものにならない古い価値観」を刷り込みされて成長した影響が非常に大きかったと思われます。いい子でいなければならなかった教育も社会全体に存在しました。

 

 

でもちょっとその悲劇による文化的進化のようなものが見えることとして、社会に出て転びまくった団塊ジュニアは今度は自分が子育てをする立場になり、これまでの教育方針を比較的引き継がなかったことです。

 

「自分が思う正攻法が、次世代にも通用するかどうかはわからない」という自分の経験した悔いよる前提を持ちながら、自分の子供を同じ一生懸命生きている人間として育てている人が多く出てきたなと感じます。

 

ここには、来年どうなるか分からない不安定な世相も後押ししています。自分が体験し続けた絶望を通して、完全に古い価値観を断ち切った。

 

これは目覚ましい進化だと思う。

 

 

「絶対的な存在である親」という椅子からは降りて、年齢ではなく同じ人間として話をする親子関係が多く生まれていることを感じます。力技の根性論ではなく、対話で親子が心を寄せ合うことの価値を感じている人が多くなってきたからなのかもしれません。

 

それだけ、高度経済成長を支えた親世代が一生懸命働くうしろで、子供たちはみんな寂しい思いをしていたし、そこでの摩耗が長く人生に影を落とし続けたという事を示す現象だとも私は感じました。

 

クヨクヨは自分の幸福と関係性が強く
そこには確かな意味があります。

 

過去のツラい体験を、幸福な出口へ導くことが出来るのは自分だけです。

 

私たちはいつも無自覚ですが、実はまだ「不運な出来事」と感じた過去の事象はそのカタチで完全に終わってはいません。それを何らしかの突破口やきっかけにできた時、同じ事象は自分の中で以前とは全く異なるカタチへと姿を変えていくことになります。

 

それではまた次回、お会いしましょう♪

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