■みんなの『クヨクヨ➡再起エピソード』大募集!

クヨクヨにこそ幸福へ向かうブレイクスルーポイントがある。

◆クヨクヨ

今回は、クヨクヨ・メソメソに対する価値観を一旦整理して見直してみよう!という事がテーマです。

 

【この記事を読むと分かること】

①クヨクヨ・メソメソが決してネガティブなだけの現象ではないことが分かる。

②クヨクヨ・メソメソの感情に人々が怯えるようになったトラップが分かる。

③偉人だって誰だって、みんなクヨクヨしてたことに気づく。

④あなた思う幸福、価値観は、本当にあなたの心が出した答えなのか?

 

➡クヨクヨ・メソメソが自分を真の幸福へ向かわせてくれるブレイクスルーポイント、つまりは超チャンスタイムに自分が今まさに置かれていることを薄々感じ始める!

 

…はずです(笑)宜しければ、堂々巡りのクヨクヨから抜け出すためのひとつのアイデアとしてご活用いただければ幸いです。

 

さあ、さっそく行ってみましょう!

■ステップ0:クヨクヨ・メソメソしている自分がイヤですか?

さて、唐突ですが

「クヨクヨ・メソメソしている自分ってイヤですか?」

 

これにソッコーで「イヤ。」と思う方は、きっとまだまだ幸福への伸びしろがたんまり残っていると思われますので、是非一度、わーいと喜んでください(笑)。世の中には「クヨクヨしない!」系の書籍や情報に溢れているので、こちらの方が人口的には圧倒的に多いのではないかと予想しています。

 

一方「実はイヤじゃない気もしている。」と思うちょっぴりマイノリティーな方は、もはや自分の幸せについての体系的な構造をつくり始めている、中には確固たるものが出来上がっている方もきっといて、以降の話にはもしかすると新しいアイデアはそんなにはないかもしれません。

あるいは今のところ直感的に、ちょっとどこかでそう感じる段階にあって、無意識の領域にいるかもしれません。

 

いずれの場合も、同志カキコが歩んできたほうの「道なき道」を楽しむような形で、以降の内容をご堪能いただければ嬉しいです。

実際の私は今でも、やっぱりたまにクヨクヨすることもあるし、全然得意ではないけれど、その事象に込められた空からのメッセージがきっとある、という事を信じて受け取る意識をしている感じです。

 

■ステップ:1「ポジティブな思考が健全で、あるべき姿」という社会全体にある価値観はもはや世界的な伝染病。

そして、クヨクヨ・メソメソに関していえば、私カキコはこれでもか、というほど人生で転び続けてきたので、もはや転倒名人・黒帯級なのではないかと自負しています(笑)。

 

やったー!?

 

最初に言うと、私は「脱・ポジティブ崇拝」をサイトのサブタイトルから掲げています。

 

 

誤解して頂きたくないのは、元々体質的に「超絶ポジティブ思考」への転換スキルがずば抜けている人というのも稀に世の中には存在して←松岡修造さん等(笑)、

 

そういう人に対してまで「おまいはポジティブ崇拝だっ!バッテンバッテン!」なんていう気は私にはさらさらありません。

 

生きづらくない時点で、たぶんそれはその方の正解だとも思います。

 

 

私がお伝えしたいのは、「負の感情」が自分の中に出てきたことを認識しておきながら、「見て見ぬフリ」をして、なんだったら「なかったこと」にまで歪曲させ、せっかく降りてきたメッセージを脊髄反射のように破棄し続けてしまっている、

 

もっというと「させられてしまっている」
なのに苦しみ続けている、というスパイラルに陥っている人々に対するひとつの提案です。

 

 

自分でちゃんと腑に落として消化をできていないのに、強制的なポジティブを自身に強行していくこと「ポジティブ崇拝」カキコ的には呼んでいます。(心の中で)

 

ここでも言ってしまいましたw

 

結論から先に言うと、思うに「負の感情」や自分に振ってくる「困難」は、「もっと豊かに、もっと幸せになれ!」という「神聖な何者か」からのメッセージであり、

 

自分にとっての約束された幸福の扉を開くカギです。カギというか、鍵のある場所を教えてくれているヒントという感じでしょうか。たぶん、多分ね(笑)。

 

もしかして、スピってる感じがして違和感がありすぎる方は、
一旦、こちらをご覧いただいて大丈夫かどうかご確認いただければと思います。(末尾あたりに詳細があります)
↓↓↓

■管理人・岩カキコについて~クヨって再起の経歴概要
岩カキコの自己紹介と、これまでの人生の転倒歴の概要です。

 

言い換えれば、クヨクヨ、メソメソしている段階で、そのカギを見つけ出すためのチャンスタイムに入ったということ。

 

負の感情を条件反射で
ポイ捨てしている場合ではありません。

 

 

■クヨクヨ、メソメソ、いわゆるネガティブ思考とは?負の感情を恐れている理由を考えてみよう。

基本的には、何か自分の中で「描いてきたこと(主に期待や希望)」に対して「異なる現実」が出てきた時に「失敗」「挫折」「失望・失意」「後悔」という類の札が自分の中で付き、「悲しみ」「憎しみ」「恨み」「怒り」のような感情を伴って出て来るのがクヨクヨ、メソメソではないかと思います。

 

自分自身の内側で膨張していく、本人も受け入れがたいドロドロした人間の感情が、後から後から溢れてきている、という状況自体が「自分の受け入れがたい本性」を突き付けられているようなショックが起こり、本人も非常に消耗します。

 

口から100万匹を超えるミミズが後から後から出て来るような光景を想像すると、かなりキツイのが分かるかと思います。

 

口の中にミミズが1匹いるだけでもキツイのに、100万匹のミミズを吐き出している自分が居たとしたら、その状況自体も本人は苦しいでしょうし、その姿を誰にも見られたくないのも分かります。

受け入れたくない
二重の苦しみ。

 

世間ではそれら波動の低い「負の感情といわれているもの」を伴って悩み続けることについて「ネガティブ思考」なんて表現します。

 

 

同時に、「ネガティブ思考を変えよう!」的なアナウンスが世界中でされていたり、最近では「成功したいならネガティブ思考の人間からは離れろ」というような強迫じみた発信まであることから、

 

人々は自分の中で発生したそれら「ネガティブとされる感情」が、今まさに自分の中に存在していることに怯えまくり、その感情と十分に向き合う事もなく一刻も早く封印し、埋葬し、「なかったこと」にしようとします。

 

でも、あるでしょ。
誰だってあるんです。


自分でも分かっているはずです。
見ないフリをしているだけ。

なぜって、
ソレが自分の中に在ること自体が怖いから。

 

じゃあ、そんなに怖いのは何故なのか??

 

だって、成功したいし、幸せになりたいから。
ネガティブ思考だとしあわせが離れていくって言うぢゃん。。。

 

はい、ココでひとつの問題が発生してきました。

 

それは一体、誰が決めた幸せなのか?

 

「私の幸せ」は、その人の幸せと本当に本当に一緒のものなのか?
考えている「幸せ」は知らず知らずのうちに何者かに押し付けられた価値観ではなかったか?

 

 

■『サロメ』劇作家・オスカー・ワイルドの『獄中記』にある言葉

アイルランド出身でヴィクトリア朝時代に活躍した詩人で劇作家の、オスカー・ワイルドさんは『サロメ』などの耽美・退廃的な文学作品で人気となりました。しかし、当時大罪とされていた「男色罪」により投獄され、2年間の実刑服役により妻子とは離散。

 

そんなオスカーワイルドさんの作品『獄中記』にはこんな言葉があります。

 

あなたが自分だと信じている人間は他人である。思想は他の誰かの意見であり、生活は模倣であり、情熱だと思っているのは借り物だ。

―オスカーワイルド『獄中記』

 

最も人生で長く共に連れ添っていく「自分自身」。それを知っていく旅もまた、人生の裏テーマであることは間違いありません。これはまた、万人に共通することでもあるのかもしれません。

 

そして、歴史に名を刻んだ偉人たちは、全員常にポジティブで一切悩むことがなかったのか??

 

ここまで考えると、オスカー・ワイルドさんだって超悩みまくってる感じがすることから、そんなことは絶対にないって分かってきます。考えようによっては歴史に名を刻んだ哲学者や科学者などは皆、人生を悩んで終わった偉人のような気もしてきます。

 

人間が悩むこと自体が
生きている証。

 

まさに、「我思うゆえに我あり」なのでございます。

 


ルネ・デカルト

 

自分は紛れもなく生きていて、この世界に存在していることを確信できる無二の存在。そう思うと、クヨクヨは言ってみれば、全てが疑わしいこの世界に差し込む、一筋の「確かであることの証明」輝かしい光でもあるのです。

 

哲学者・デカルトの悩みと「我思う故に我あり」が導いた新しい世界観
悩んでいた偉人として、フランスの哲学者で近代哲学の父と言われているルネ・デカルトの悩みとブレイクスルーとなった名言「我思う故に我あり」という答えが導き出した新しい世界観について調べました。

 

■無意識で取り入れている「ネガティブ思考排除」「ポジティブバンザイ思考」のルーツを知る。誰の価値観?誰の美意識なのか?

さて、社会の中の「ポジティブに生きていこう!」的なアナウンスというのは、私が若い頃からすでに十分あって、自分の成長の影響なのか世相だったのか?年々その影響度が増していったような印象の経緯がありました。

 

 

私の幼少期である昭和のソレは、どちらかというと焼け野原になった国家の絶望からの戦後復興で出来た共同体意識に対する印象がしていました。

 

■坂本九さんの『上を向いて歩こう』と団塊世代の価値観

例えば坂本九さんの「上を向いて歩こう」という国民的名曲(作詞は永六輔さん)は終戦から約16年後の1961年7月に初披露され、レコードが発売されると爆発的なヒットを記録しました。

 

幸せは雲の上に
幸せは空の上に
上を向いて歩こう

涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぽっちの夜

―『上を向いて歩こう』歌詞抜粋

 

(カキコ解釈)まだ手が届かない遠い遠いところにある「しあわせ」。でも確実にそれはある。だから前向きに涙がこぼれそうになっても歯を食いしばって我慢して心で泣いて、たった一人だったとしても頑張って前を向いて生きていくんだ。

 

これが大ヒットした頃、高度経済成長で活躍する団塊世代はちょうど小学校高学年。おそらく、「共同体意識」「我慢」「努力」といった世代の価値観や思想形成にはこうした背景もあったのだろうとカキコは思いました。

 

そして『上を向いて歩こう』では「一人ぽっち」という孤独な主人公にスポットが当たっていますけれど、戦後もその後も、色々な形で「自分は一人ぽっちだ」と思う人々というのはきっとたくさんいて、

 

それぞれの悲しみはこの1曲によって「あなただけではない」という寄り添いの意識とこんな風に同じ星や月のかげに映し出すことによって、共同体全体で共有されているようでした。

 

悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに

―『上を向いて歩こう』歌詞抜粋

 

悲しみは分かち合う事で
乗り越えられる大きさになる。

そんなエールを感じるような素晴らしい曲です。

 

久々に聴いたらうっかり涙が出ちゃいましたw

 

それから間もなくして、「上を向いて歩こう」は世界で「SUKIYAKI」として国境を越えて愛される曲となったことも、この共同体意識が国内に留まるような価値観ではなかったことが分かります。

 

 

争いに勝敗なんて本当は無くて、どちらの立場であっても悲しみと喪失感を伴うという事、素晴らしい曲を素晴らしいと思う心はつながっているという事を教えてくれていた気がします。

 

 

しかしいつの頃からか、この時、人々の心をつないでいた「共同体意識」は時間の経過と時代の流れによって、「同調圧力」という予期せぬ方向へ変貌を遂げてしまいました。

 

■現在の「ポジティブに生きていこう!」カキコ考察

現在の「ポジティブに生きていこう!」も普通に言語だけで受け止めれば「前向きに生きていこう!」というメッセージであり、

 

 

人間の「イメージ」が与える未来創造への影響力というものがにわかに潜在意識界隈で注目されていたりもしていることから、クヨクヨの社会的評価に対してこんなにも違和感を覚えるのは、カキコが単にへそ曲がり人間だから?というところも正直否めません。

 

でも、おそらくはそれだけの要因ではなくて、1990年代以降のインターネットの普及やさらにSNSの発展により、ネット上の成功者と言われる若きカリスマ達がたちまち「根性と努力と我慢・共同意識の昭和世代」を押しのいて台頭したことや、

 

「失われた10年」だったはずのデフレ不況が20年になり、30年にまで至った今の段階で、2倍、3倍、10倍と社会不安がホップステップジャンプで増幅し続けていったことも背景としてあるのかなと思います。

 

 

不況のホップステップジャンプ。

 

そんな中で、

 

自分も、はやく成功したい!

 

そんな心の声があらゆる世代から爆発していたのが平成の時代だった気がしています(体感)。

 

共存共栄っぽい雰囲気だった昭和とはだいぶ空気が変わっていて、経済的な戦国時代、他者をいかに出し抜いて自分だけが豊かさを確保するか、というような天下無双を狙う下剋上の世界観のようなものが立ち込めていました。

 

この頃の「成功」とは日本の場合、デフレ30年の絶望的社会を背景に、その殆どが「お金」と「名誉」と「にわか個性の権威」に集約されていたと思うのですけれども、そんな人々の焦りがスピード感と緊迫感を増していく社会の中で「ポジティブ崇拝」を感染症のように拡散させていった印象がありました。

 

 

現在では、「ポジティブな人間と思われることの死守」はもはや「信仰」に近いくらいのモノに化けた、とカキコは個人的には思っています。

 

ポジティブ教。

 

確かに、ネガティブよりは聞こえがいいし、健全そうで美しいしたくましい…ように見える。
「ネガティブな人」と言われるよりは「ポジティブな人」と言われる方が明らかに「聞こえがいい」気がしてきます。

 

ただ、私の場合は「ポジティブ教」が完全に世の中に浸透した頃、美術大学で未来が見えないお金にもならない制作活動を永遠しており(笑)、「なんか多分ソレちょっとおかしい。」と肌感で思っていました。若きこの時期の段階では「虫の知らせ」というか、根拠のない単なる直感のレベルでした。

 

 

その頃の私には、まだ人生について体系的に物事を考えていく力が殆どなかったため(笑)、きちんと人に伝えられるようなスキルはありませんでしたが、動物的直観とかインスピレーションのような形で、「それでも私はクヨクヨを愛して生きていく。」ということを不思議と心に強く持っていました。

 

人々がネガティブと避けていくものの中には、
それでもきっと私が大事にしたい「豊かさ」の種がある。

 

そのことに気づきつつありました。

 

 

変な話になりますが、当時大学で制作をしていた身として痛感していたこととして「クヨクヨしているとき」の制作物というのは、凄まじく感度の高いみずみずしい生命力のようなものがジワる、という不思議な効果があったのです。つまり、平常時とは比べ物にならないほどの感受性が発揮され、豊かないい作品が出来る。

 

クヨクヨしている時に造ったものに限って、他者からの共感も強く得られ、作品を通して誰かと手を繋げたような想いにもなる。

 

さらに副産物として、「いい作品」にできたことで負の感情の肯定➡昇華というミラクル起こる。

 

全然悪くないぢゃん、クヨクヨ(笑)

単純に、そんなことを思っていました。

 

ですから、私の場合は制作活動を通して、

「負の感情」≠ネガティブ

という公式がすでに出来上がりつつありました。

 

それは私が子供の頃から(孤独だったために)自分の声と対話を続けてきたことによって、その「通路」というか「配管」が比較的通っていたからだとも思っています。

 

またアブない人だと思われそうですが、
ニュアンスだけ表現するとすれば、
「神聖な世界の存在」と自分の間にある意識を交信するための管です。

 

 

血管とか配管とか
くだ大事。

管が詰まると大概は大事故になる。←元不動産業従事者

 

◆人の目に「どう映っているか」というのも、本質とズレまくる頼りないイミフな価値。

あと一般の世界では多分、若い時からなぜか比較的「明るくて元気で前向きでポジティブな人」というあり得ない第一印象を持たれる私でしたが、なぜこんなに本質的に暗めの人間に対してそう思うのか(笑)ある時を境に、謎で仕方なくなりました。

 

ココで分かることは、自己認識と外からの印象もまた、ズレまくっているという事です。

 

「ポジティブ人間」もっと言うと「差し障りがない程度のコミュニケーションを安定的に維持できる人」がこの時代で愛されることは学生時代のうちに十分理解していましたが、

 

クヨクヨ、メソメソ、ジメジメした自分のシダ類のような感性にこそ、私はより自分の誇らしい性質がたくさん秘められているとも感じて生きてきました。(今も比較的そう思っていますw)

 

 

人間性の豊かさや慈愛、哲学、思想、幸福力という、人間の「奥行」にあたるものは、多分いつも一定の湿度を持っていて、何故ならそこには過去の耐え難い困難な経験そこから再起し、生きていく歩みを止めなかった自分への自信に裏打ちされているからだと今は思っています。

 

そこには死の淵を見るようなジメジメ・クヨクヨした時間が必ずある。

 

だから、そういう受け入れがたい感情さえも邪険にすることなく愛してあげて欲しいのです。それはきっと、自分の本質を強固なものとし、人間的分厚さを増してくれるものだと思いますから。

 

 

なぜそんなこと恩着せがましく言うかというと、私自身が過去の膨大な量のクヨクヨと人生の転倒を繰り返して手にしたものは、紛れもなく幸福力だったという実感があること、そして、この世界で最も真の貢献ができる人はおそらく幸福な人間だろうと私は思うからです。

 

もし、世界をここからさらにより良い方向に導く人間がいたとすれば、
それはしなりの効いた幸福力のある集団ではないかと私は考えています。

わざわざ、きっと「言いたいことがあって」登場してきてくれた「存在している自分の声」(クヨクヨ)をことごとく無視し、否定し続けることは、自分自身の核を傷つけることにもなるはずです。そして、いつか無視され続けた自分の内側は、何かのタイミングで暴れだすことになるでしょう。

 

私の場合はそれが離婚を決めるきっかけになりました。その時、暴れだす狂気の自分を止められるものはありませんでした。内側の自分だって、殺されかけたら狂気のごとく抵抗するのです。

 

この状況にまで陥った要因は、離婚から10年経って思うに、
相手の人間性の問題ではなくて、きっと私自身が忙しさを理由に、自分を大切にしてやることを怠ったことによるものだとも思っています。

 

でも、これらは完全に私の主観であり、私の考える「幸福観」「豊かさ」なので、これまでの話に違和感を感じられる方もきっと沢山いらっしゃるとは思っています。私自身「正論」とはなぜかいつもことごとく無縁の人間でもあります(笑)。

 

ですから、一度立ち止まって、貴方の答えを考えてみてください。

●あなたにとっての「成功」とは何か?
●あなたにとっての「幸福」とは何か?
➡それらは本当にあなたの思うものなのか?誰かに植え付けられた価値観ではないか?

ということを。

 

それではまた次回
お会いしましょう♪

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