子育てと母親の介護を終え、旦那を看取ったご近所K夫人の門出の話

◆親のこと・介護・相続「イエ」のはなし

私の実家のご近所に何十年も住まわれていたK夫人が引っ越した話の「後編」です。後編では主に「昭和の女性」が迎えた令和のひとつの生き方についてのお話です。

◆実家のご近所さんK夫人がお別れのご挨拶に来てくれたはなし

 

前回、実家の近所に何十年も暮らされてきたK夫人が私の実家へわざわざ転居のご挨拶に来てくださったところから、昭和の時代のK夫人と私のちょっぴりキラっとする「思い出」の時間について書きました。

 

その記事はこちら↓

実家のご近所さんK夫人にまつわる昭和の子供たちにあった宝物の話
私の実家のご近所に何十年と住まわれていたK夫人が引っ越した話の「前編」です。前編では主に「昭和の子供たち」が当然に与えられていた宝物についてのエピソードです。せ、せつない(泣)

 

回想と「昭和の子供たちに与えられていた宝物」という別テーマで終わってしまった「前編」でしたが今回はK夫人からのお別れのご挨拶の時にK夫人私の母親とお話しした内容です。

 

K夫人私の母も同年代の女性で、同じ20代前半でこの土地へお嫁に来た同士でした。

 

K夫人専業主婦でしたが、私の母は父の仕事を手伝っていたため働いていました。ですから日常的に交流があったわけではありませんでしたけれども、近所の中でも特別品があって、感じのいい女性であるK夫人とは道端であると良く立ち話などをしていたようです。

 

中野カンナ
中野カンナ

私の中ではK夫人は若い時も年齢を重ねてからも八千草薫さんのようなイメージでした。

 

そんな同年代で嫁ぎ、同じ年月をこの土地で暮らしてきたとのおそらく生涯最後のご挨拶になるということでK夫人はわざわざ新居から電車に乗って、足を運んで来てくださっていたのでした。

 

 

◆昭和の時代の男性と女性の立場の関係

 

若い時の私の父はとても顔つきが厳しく、に対して話す口調もきつかった為、の元で働く私の母の姿にK夫人は自分の境遇と重ねられていたのかもしれません。

 

 

は、大変厳格な父親(私の父方の祖父)に育てられた男3人兄弟の次男であったため、女性というものは自分たち(立場の偉い)男性の生活を成り立たせるために働く者たち、という認識だったようです(苦笑)

 

女は男のために働く者。

 

今ではイリュージョン感すら覚える考えですけれども、そういう認識になるのも時代環境を考えると分からないでもないなと思ったりもします。

 

父の母親(私の父方の祖母)はこれまた母同様仕事を持っており、田舎から出てきた女性を下宿させつつ雇って、自分も休みなく働いていました。(私の母も田舎から出てきて下宿して働いていました)

 

 

また、祖母が日曜・祝日ほど忙しくなる仕事をしていたため、育児や家事なども殆どできなかったので、家事を行う家政婦の女性がいたようです。

 

こんな風に書くと祖母まで仕事をもってスゴイ人!と思うかもしれませんが、祖母は幼少期に漁村で生まれ、兄弟がとても多かったために親戚の家へ養女に出されていました。

 

女の子に生まれると、
両親と暮らせないことが普通にあった日本。

 

(父方の)祖母の妹も同じように養女に出されており、祖母他人の家で幼少期を過ごし、手に職をつけて自立することでささやかな自由を手に入れた人だったのです。余談ですが、祖母の兄弟でも男の子が養子に出されることはありませんでした。男の子は家の跡取りにも、仕事の助けにもなったからです。

この辺りの話は本当にNHKドラマ『おしん』と(父方の)祖母の姿がぴったり重なる印象です。

 

 

そして、その後東京で祖母だけには生涯を通してとても優しかったという祖父に出会い、終戦後にようやく30代で結婚して店を持ち、男の子を3人産んだのです。その時代に30代での結婚というと、かなり遅いと思われるかもしれませんが、戦中戦後には男性の数も少なく、さほど不思議なことでもなかったようです。

 

その時代に両親共働きなのだから、さぞかし豊かな暮らしぶりだったのだろうと想像するかもしれません。しかし、ここでも祖母「本当にお金のあるうちは女は働かない」と、その世界では「先生」と呼ばれようとも、死ぬ直前まで、若い時代に働いていたことに対する女性としての負い目があったようです。今とはかなり価値観が異なる時代です。

 

国を守るために戦争に出たのは男性

こういう時代でしたから、男性が命がけで戦争へ行った分、女性より偉い時代だったというのも理解できる気がします。逆に言えば、女性に自由な発言が許されたり、男性と同じように働くことが出来たり、同じ教育を受ける権利や選択肢がある現代というのは、国が豊かであるという証拠だともいえます。

 

 

をはじめとした男3兄弟はそういうわけで、住み込みの家政婦の女性に育てられ、子供ながらに「自分の家に雇われている者」という視点でその女性を見て育ち、考えられないようなひどい言葉をその女性に投げていたりということも少年時代は多々あったようです。(今は反省しているようですw)

 

ともかく、
子供であっても男が偉くて

女はそれに絶対的な忠誠心で従わなければならないという時代。

 

それが私の父の幼少期における日本の、少なくとも「東京」の姿だったようです。

 


画像:柿の剪定方法

 

私は母の若い頃、母が洗面台の隅でひっそりひとりで泣いている姿というのを何度か見かけました。大抵は父に何かを言われ、悲しくなって席を立ち、洗面台へ行って泣く、という姿でした。

 

小さい頃の私にはその原因となる「ことば」がどんなものだったかはもう記憶にはありませんが、私自身も10歳頃まではほぼ毎日のように「しつけ」と言うことで父に叱られ、平手打ちにされ、床に投げ飛ばされるほどの状況だったので、「父は家で一番偉いから言うことを聞かなければならないんだ、そしてそれは大人である母といえども同じ」というのが幼少期の私から見た「我が家の教育」であり「家訓」でした。

母が父に殴られるという光景は我が家では幸いありませんでしたが、その時代に女性が夫に暴力を振るわれるということは結構ザラだったようです。

 

 

ただ私の「父親という人」は、今思うと元来そこまでひどい人間ではなく、もともとユニークで質素倹約でありとても子供想い、家族想いの人なので、あの頃の姿というのはまだ親になりたてで彼自身が親としても夫としても若葉マーク付きの時代であり、もろもろ模索中だったのだとも思います。

 

子供の私を床に殴った後には、数十分して私が回復する頃、一緒に遊んでくれたのはほかならぬ父であり、そういった関係があったからこそ、自分は「親の愛情としての教育」と信じて大人になることも一応できました。そういう意味では個人としての父親自身と、社会的な父親や男性像といったものとの間の葛藤が父にあった時代だったのかもしれません。

 

 

◆K夫人が私の母親に話したこと

 

前置きがずいぶん長くなりましたが、K夫人がそういうわけで訪ねてきたのです。長年住んだ家を引き払い、横浜のマンションでひとり暮らしをするんだととても嬉しそうだったと言う事です。

 

ひとり暮らし??

K夫人には私より少し上の、男の子と女の子のお子さんが居ました。ちょっとした違和感をここで感じる母と母からの話を聞いた私。

すると、そこからそれを察したのかは分かりませんが、K夫人はここまでのご自身の人生を話し始めます。K夫人はお嫁に来て、舅姑と同居という形で若い頃は暮らされ、が他界してからもくせの強い姑に気を使って日々我慢を続けて暮らし、子育てをしながら専業主婦として家族の生活の世話を何十年もしてきたそうです。

 

そして、自分の親でもないの介護をK夫人たった一人に家族中から任せられ、ようやく自分を苦しめていたが亡くなったのもつかの間、今度はそれまでさほどK夫人には文句も言わなかったが今度はとても強くなってしまい、日々罵声を浴びせられる状況が続いたようです。

 

 

が会社へ行っていた頃はまだそれでもよかったものの、リタイアしてからはそうした生活が毎日1日中続き、の時以上に本当に参ってしまっていたようでした。そんなも、間もなく介護状態になり、それを面倒見たのもK夫人たった一人でした。

 

介護状態のの世話というものも、

「涙が枯れ果てるほど泣いたから、人生の最後にには強くさせてもらったのかもしれないわ」とK夫人は気丈に話しつつも、地獄のような日々だったことを感じる内容でした。

 

数年前、K夫人の旦那さんのお葬式がありました。その時の話を語り始めるK夫人

「とても悲しかったはずなのに、葬儀に来てくれた友人から、なんだかちょっと嬉しそうね、なんて言われちゃって…。そんなことはなかったはずなんだけどね・・・。でも少しホッとしたのと、やっと嫁ぐ前のような、私だけの人生になったと思ったのは確かだったから、それが顔に出ていたのかもしれないわ。」

 

K夫人は姑も夫の世話も一人で最後までやって看取ったのに、自分は子供たちに介護してもらいたいとは微塵も思わないのだそう。

 

そうして、K夫人は私の母に続けていったそうです。

「ほんとうに、女の人生って何なのかしらね。私はこんな年齢になって気付いてしまったから少し遅いけれど、もっと若い頃から社会の目だとか家族の目だとかばかりに振り回されないで、自分の人生をちゃんと生きるべきだったと今更思ってね・・・。だから今、誰にも気を使わないで好きなことをしてひとり暮らしをできるというのが、おかしいんだけど女学生にでもなった気分でね。子供たちのお世話にならないんですか?なんてたまに聞かれるのだけど、とんでもない!また肩身の狭い場所で死ぬまで暮らすなんてもうまっぴらですよ。いま、とても嬉しいのよ。中野さんも(のこと)これからどうぞ楽しんで元気で暮らしてくださいね。」

 

そう言って、さようならありがとうを残して颯爽と帰られたそうです。

 


画像:柿の剪定方法

 

さて、K夫人の一戸建ての土地と家屋はどうやら売却されるようで、その後に不動産業者のような方が何度か家の周辺を見に来ていました。私も不動産業に長く従事していたので、おそらくはすべて取り壊されて更地にされるのだろうということは見当が付きます。

また、仮に更地にはならなかったとしても、戦後はきっと家族に実りを喜ばれていたであろう「柿の木」が近年では実が落ちて道路を汚すことや鳥が落ちた果実に虫が集まったり、そもそも落葉樹で秋の枯れ葉が多いということで、東京では「柿の木」のある家の近隣からの苦情が出るということも不動産業者の話として聞いています。

 

昔は「柿泥棒」なんていう単語もギリギリまだありましたけどね。それは遠い昔のことになりつつあるようです。

 

 

ですからK夫人とのお別れは、私の幼少期の思い出と、それを通るたびに思い出させてくれて、私の成長をずっと同じ場所で眺めてきてくれた「柿の木」とのお別れにもなりそうです。そして、

家族の最後。

いずれそれは必ずやってくるものなのだとも感じたKさんとのお別れのお話でした。

 

それではまた次回お会いしましょう!

中野カンナ

 

 

K夫人とのお話「前編」はこちらです↓

実家のご近所さんK夫人にまつわる昭和の子供たちにあった宝物の話
私の実家のご近所に何十年と住まわれていたK夫人が引っ越した話の「前編」です。前編では主に「昭和の子供たち」が当然に与えられていた宝物についてのエピソードです。せ、せつない(泣)

 

【お知らせ 2019 10/27】

当面、手探りで運営する個人サイトであるため、素人感たっぷりだとは思いますが、
twitterアカウント「中野カンナの女道」を準備しました(笑)←実はこっちも良く分かっていないw

 

記事数が整い次第、にわかにつぶやこうかと思っています(笑)

 

中野カンナ
中野カンナ

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なお、同姓同名が多発している「中野カンナ」ですが、現状で運営しているのはこのtwitterアカウントのみで後はtwitterもFacebook、その他に関してもこのブログ以外は他人様です(笑)

 

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